Roots MMJ創業時からの歩み

りんご農家から専業酪農へ

未だ覚めないぼやけた思考にエンジンの音が入って来る。

三田地正人(みたちまさと)は夜明け前であろう薄明かりの中、床の中で目を覚ました。不規則ではあるがバババ バババ、とエンジン音が家の外から聞こえてくる。そう遠くない所のようだ。

聞き覚えはある・・・チェーンソーか!、正人はフトンの中で外から差し込む光に夜明けの気配を感じ身を起こした。

岩泉の農家の多くはどこも同じ様に小さな薪ストーブが玄関の中央にある。長椅子が囲むように置いてあるが、もう火は消え、冷え切っているストーブの前を歩きながら寝間着の襟を合わせた。

「こんな早くに」疑問は膨らむ一方だ。まさか兄貴は・・・玄関の引き戸に近づくとエンジンの音がはっきりと聞こえ、家の外から差し込む白み始めた空の弱い光が震えているように見える。

戸を開ける。濃い朝もやが立ち込める中、兄と思える黒っぽい影が動いていた。音は更に大きくバババ バババと山中に響く。

正人は動けなかった。

まるで鬼神を前にしたかのように震え、止めなければ、止めなければ、という思いはあっても一歩も足が出ない。膝の震えが止まらない、動けなかった。

家の前の40アール程の傾斜地にりんごの苗木を植えたのは10年程前であった。

兄の背丈を優に超え2mにもなるりんごの樹は青葉を芽吹かせている。

「止めなければ!」でも止められるのか?

引き戸を開け、家の前に立った正人は一歩も踏み出せずにいた。背筋が固まったように動かない。

一本、また一本、次々と、今年リンゴがなるはずの細いりんごの樹は倒される。

動けない、正人は夕べ兄、義正が話した事を思い出していた。「これからうちは酪農で食って行く、りんごはやめる」と言っていた。みな反対した。酪農は金がかかる。牛舎、牛、トラクターに作業機。初期投資の桁が違う。

兄は眠らず考えたのだろう。明るさを増す霧の中、ハッキリ見えてきた兄の姿に迷いは感じられなかった。りんご農家から酪農専業にしたいという言葉は本物だった。

正人は玄関の土間に戻り引き戸を閉めた。チェーンソーの音は少し小さくなった。

この日を境に正人は兄、義正に意見することは生涯なかった。兄がサイロ詰めの事故によって他界するまでの40年間である。(三田地正人氏の弔辞を引用)

当時、国を挙げての酪農増産体制の中、三田地牧場は有数の酪農家になっていった。国の農業総合資金を借り入れ、24頭の搾乳牛舎、草地は10ha。トラクターや収穫機、タワーサイロと機械や設備を充実させて、当時主流になってきたパイプライン搾乳機も導入した。   7万kg/年のミルクを産出した。

隣の佐々木牧場もほぼ同じ規模で互いに仕事は協力し合い、酪農専業農家として事業を充実させていった。リンゴ農家からの事業転換はうまくいった、かに見えた。

岩手県の減産型生産調整(注1)とけんこう牛乳への出荷

周りを早池峰山やウレイラ山に囲まれた岩手県岩泉町には200軒の酪農家が有った。平成2年の岩手県では厳しい減産型生産調整が実施された。当時、生産調整では生産枠外(注2)の生乳は捨てるしかなく、生産調整分の生乳を他へ出荷することは計画生産の中では厳しく禁じられていた。

現岩泉グループ代表の佐々木安男、三田地義正はその生乳を捨てずにアウトサイダー(注3)に販売する計画を密かに立てていた。三田地をグループのリーダーとして4軒の酪農家はアウトサイダーへの出荷を水面下で進めていたが、平成2年9月9日の共進会(注4)の昼食の席で計画が漏れてしまい、大騒ぎになった。その騒動により酪農役員から激しい非難に合い、農協から生乳受託拒否を言い渡された。4軒の酪農家は枠外の生乳のみを出荷する予定だったけんこう牛乳に生産する生乳全量を出荷することになる。

農協からはすぐに餌の供給も止められ、補助事業の道も断たれた。さらに執拗な差別、排除的な行為は続き、町の酪農業としての登録からも外された。

そんな中、平成2年の生産調整は生乳が余っていたからではなかったことが判明した。酪農の政策的な方便であったようだ。4軒が離脱し、生乳が足りなくなった経済連は1000万円の協力金で佐々木さん達を引き戻そうとする。しかし、既に両者の間には大きな溝が生まれており、戻るという選択肢はなかった。そこで戻っても生産調整や組合の圧力が無くなるとは思えなかったからだ。

その後、けんこう牛乳への出荷は平成15年まで13年間続いた。

 

乳業、異常風味事件と販売先縮小

けんこう牛乳は生乳卸をする傍ら1日360ℓの牛乳を処理、製造する小規模な乳業メーカーだった。岩泉グループを吸収することで取扱量が増えるにつれ、乳業メーカーとして発展していく。

牛乳の売り先が宅配からスーパーに替わってきていた。小売りの販売先を増やし、順調に販売できたように見えたけんこう牛乳は、県内の販売先で風味異常事件を起こしてしまう。

それまで売り上げを伸ばしてきた牛乳は信用を失い、小売り製品販売事業は縮小を迫られた。しかし、工場に集まる生乳は止められない。横浜の乳業工場へ転売された。

他の酪農家グループの生乳は乳質が悪いために売れず、主に岩泉の生乳を転売していた。

長距離の転送費がかさみ、不需要期は売れない生乳も発生し、平成13年、14年と徐々に経営が悪化する。農家へ乳代が満額払えなくなっていたという。

それでも当時、一度インサイダーの組合を抜けた酪農家やそのグループが元の組合に戻るのはむつかしかった。

不平等な乳代精算、横取り

けんこう牛乳に元々出荷していた他の酪農家グループには比較的多く乳代が支払われたが、岩泉グループには乳代が約半年間1割程度しか払われなくなった。

はじめの3カ月間は何とかやりくりしたものの、その後は子牛を売ったり、生命保険を解約するなどギリギリの状況で生活をしていた。

この様な状態でもけんこう牛乳への出荷を止めることが出来なかった。当時、岩泉グループのリーダーである三田地義正はけんこう牛乳の役員として保証人になっていたからだ。弟の三田地正人もけんこう牛乳の経営再建の為に出向役員になっていたのだ。

生乳を出荷してもそれは転売され、代金は他の酪農家グループの乳代に消えてしまう。けんこう牛乳の経営決定権は岩泉グループには無い。

乳質に問題があるのは他の酪農家グループなのに、なぜ儂らの乳代もらえんのか?

このまま餌代も払えず配合飼料を止められ終わってしまうのか?

それでも団体を離脱した時の状況を思えば。団体(農協出荷)に戻るくらいなら酪農をやめた方がいい、と考えた。

岩泉の酪農家の間に「三田地さんグループは終わるだろう」と噂が広まっていた。

終末的危機からの脱出

乳代支払いが滞り9ヶ月になる頃、けんこう牛乳に出入りしていた業者よりMMJの社長である茂木修一を紹介された。平成15年7月の事である。グループ4軒は即座にMMJへの出荷を決めた。同じタイミングでなんとか保証人を他の人にお願いすることができた。岩泉グループは翌8月からMMJに出荷を開始した。

けんこう牛乳は厄介者を追い出すように岩泉グループを見送ったが、まさか販売先の当てがあるとは思っていなかったようだ。その後、けんこう牛乳は内部分裂があったことや、新しく製造したオリジナル牛乳が思うように売れず、倒産してしまう。

岩泉酪農、岩泉グループの今。

初期、平地が極端に少なく、なだらかな傾斜地の原野が標高400^~500m程に広がる地形では田園はできなかった。山林を切り開いてはじめた開拓期は炭の生産とたばこの葉が主な産物であった。その後、土壌が肥沃になるとリンゴ栽培が普及するが、夏の晴天日数が少ない三陸特有の気候では青森のリンゴに見劣りし、市場性は無かった。

紹介の三田地さんだけでなく酪農への転進は早かった。最盛期、高原の草地を利用し200軒を超える酪農家が専業として生活していた事を思うと、産業として見ても素晴らしい。

今、岩泉グループは新たに工藤牧場を入れ7軒になった。生乳生産量は岩泉町の半数にもなる。

敬称略

MMJ 代表 茂木修一

<参考資料>

岩泉農業紀行 「名実ともに大型酪農の経営」三田地義正さん(昭和57年3月発行)
※記事内容は発行当時のものになります。

<注釈>

(注1) 減産型生産調整…生乳生産が消費を上回り、加工乳製品などの在庫も過剰になった時に指定団体(都道府県単位に有った)から所属の単協に減産するよう通達される。

(注2) 生産枠…生産枠は通常であれば問題になることはないが、減産型生産調整が発動された場合に各単協、各農家の前年度の生産実績を元に算出。生乳の委託販売を受ける量を制限するための数量枠。生産枠外の生乳を部外に転売する事は組織の裏切り行為とみなされ、厳しい対応があった。他へ転売、利用等できないようバルクタンクに残された生乳に食紅を入れる組合も有った。

(注3) アウトサイダー…国の加工原料乳補給金制度の指定団体に加入している農協、農家をインサイダーと呼び、加入していない農家や組織をアウトサイダーと呼んでいた。

(注4) 共進会、酪農家が飼養している牛を地区ごとに持ち寄り、品評会をする。姿、乳房、毛並みなどで優劣を競う。4年に一度、全国大会がある。