• 酪農と乳業をむすぶ生乳売買プラットホーム

数多い教訓

アウトサイダーを始めた当時、川野の立場は微妙だった。
リーダー的役割でありながら、その報酬は他の6軒から得ていない。無報酬である。
無報酬であれば当然責任は他の6軒と同じわけであるが、「言いだしっぺ」という事からリーダーとなった。
その性格が親分肌だったという面もリーダー役をかうのを手伝ったのだろう。
当時、アウトサイダーになることを選択した7軒はインサイダーでの苦しい経営の中、乳価が高いという理由からアウトサイダーになった。
ところが販売先はそれほど甘い相手ではなく、商売上の不手際から思ったような乳価には程遠い値段で仕切られた。
 
そこへ団体の仕掛けた罠が待っていた。
「農業協同組合」という農家が作った農家のための組織が一人歩きした。
そして卑劣極まりない手段で農家を元の奴隷のような場所に戻そうとしたのである。
川野は戻らなかった、「アウトに出ずにあのままいたら子供の学費さえ払えなかった」という。
農協と完全に縁切りする必要もないが、中に入るつもりはないと、遠くを見ながら静かに語った。
多くの事があったのだろう。
 
川野はアウトサイダーを6軒(後に7軒)の仲間と実現した後、思った以上に難しい交渉や、変化する情勢の中で組織の必要性を感じた。
1円/kgの互助会的な資金を募って万一のために備えようとも提案した。
しかし、各農家は生活が苦しく、全体としての備蓄を拠出するのは難しい状況だったという。
当時、乳価が高いからという理由でアウトサイダーになった7軒の農家は徐々に選択肢を狭め、行き先を見失う。
考えてみると、こうした意識のメンバーでは何を仲間全体としての目的にしたらいいか難しい。
生乳を高く売るというのはあくまで手段だ。目的ではない。
出荷先をひとつの乳業に特定した事も手段としては適切ではなかった。
高すぎる乳価は相手の乳業に負担を掛ける。続かないのだ。
乳価という面では、乳業との共存ができる値段、という事になる。これは目的にはなり得ない。
 
(株)ラクテックス創設時にも盛んに話し合われたが、組織の目的は「自己の力で販売力まで持った酪農経営を構築し、安定した経営を目指す事」ではないだろうか。
これを達成する手段は限りなく存在する。
ひとつの乳業との商談が失敗したからといって組織を終息させる必要はどこにもない。
この北軽井沢のアウトサイダー酪農には、リーダーはいても、団結し、ひとつの目的を持つ組織がなかった。
権限と責任を明確にしたものがなかった。
リーダーとメンバーの意識は徐々に溝ができ、互いに不安と不信を募らせている。
団体の罠にはまって乳業との契約を打ち切った時でも、数多くの選択肢はあったと思われる。
しかし、全体としては終結、そして分裂の道を選んだ。
 
川野にしてみれば、自ら始めたアウトサイダーを分裂させるのは辛い選択であったと思う。
そのとき、自らの力量にも不安があったろうが、それ以上にメンバーの無責任な言動や態度に将来を危惧したのではないかと思う。
あの時プール乳価に…という声に応えていても、たぶん継続は難しかったろう。
崩壊離散のきっかけは乳業、組合との交渉だったが、そこに至った本質的な原因は、当人も含めた7軒の酪農家にあったのだから。
北軽井沢のアウトサイダー酪農は多くの教訓を残した。
酪農家が陥りやすい組織つくりや交渉術の失敗。
そして違法な契約違反まで犯して農家を食い物にしようとする農業団体の姿勢。
それでも残った3軒の農家は今もアウトサイダーを続けて北軽井沢を代表するリーダー的酪農家として頑張っている。
インサイダーに戻って酪農を続けている4件の農家も、大きく飛躍して現在の北軽井沢酪農、群馬の酪農を牽引するような力をつけた。
 
アウトサイダーになった事で、インサイダーにいたのではできない多くの経験を得た。
当時の、7軒の農家が北軽井沢の酪農を大きく変えようとしている。
取材中その中のひとりがこう語ってくれた。
「あの出来事、俺たちがやってきた事を風化させたくない」と。